アメリカの植物生理学者、植物学者、教育者、
そして「ポン菓子の生みの親」。
1862年ミネソタ生まれ。スウェーデン系アメリカ人の移民の子。
父親の後を追って農業に従事するも、程なくして学業の道へ。
1897年、ミネソタ大学において植物生理学修士号を取得。
次いで、遊学先のミュンヘン大学で博士号を取得。
帰国後、コロンビア大学の植物標本館の学芸員となる。
そして運命の1901年。
でんぷん質の結晶核の中に自由水があることを探るため、
試験管の中に米を入れて熱していたところ試験管が破裂。
研究実験には失敗したものの、
中に入れていた米が膨化(ポンになること)していることを発見。
アレックスが発見した穀物膨化食品は、
当時の食品大手クエーカーオーツ社の目に留まり、
瞬く間に、新しい朝食用食品として全米に広まる。
1904年にはセントルイス万国博覧会へ出品。
会期中に25万パックのセールスを記録。
彼はそのキャリアを通じて、
穀物に関わる15,000以上の実験を行い、25の米国特許と外国特許を取得。
1943年、80歳でその生涯に幕を降ろす。
そして、67年後の2010年。
ひなのや玉井がポン菓子を作り始める。
(今回はひなのやの創業がハナシのオチです)
27歳で会社を辞めて、実家に戻ることになった時に上司に言われた言葉。
「帰れる場所がある奴はええなぁ」
その時は、単に「嫌味言われちゃったな~」くらいにしか思ってなかったのですが、
いま振り返ると「この町がぼくのふるさとです」と言える町があることは、
とてもありがたく恵まれたことなんだなぁと思います。
ウチはご存じのように、
その土地の資源やら歴史的背景やら人々の営みやらに頼りながらお商売をさせて頂いていますので、
「帰れるまちがあったこと。そしてそのまちの資源で日々の糧を得られていること」、
ただただ「まち」の恩恵に与かる日々です。
そんな、この「まち」もご多分に漏れず、かつてのような人通りはなく、
人の流れは外部資本の郊外店やネットの世界に流れています。
日曜の午後の駅前通りなんて、
「本当に吹き抜ける風が見えるんじゃないか?」と錯覚するくらいに閑散としているときもあります。
それについて「さみしいか?残念か?」と問われれば、
もちろん、「いいね!」と思う状況ではないですが、
これもまた時代の流れで仕方のないことだと思っています。
時代が変われば雰囲気も変わるし、人も変わる、まちも変わる。
時代の流れは止められないし、それに真正面から抗うほどの気力も体力もありません。
でも、時代に流されるにしても、ただただ流されて「漂流」はしたくない。
ただ流され漂流しながら衰退していくような「まち」は全然魅力ない。
これは本当に残念なことです。
だから、文字通り水泡に帰すだけかも知れないけれど、
せめて泳ぎたい方向に向かってバタ足したい(だれかビート板貸してくれませんかね)。
そんな水泡を可能な限り世界の多くの人に知ってもらうことが、
「ここになかなかええまちがありますよ!」というアピールになって、
ひなのやがまちに恩返しできる唯一の方法かなぁと思いながら、
今日もお店のシャッターを開けています。
世の中はそろそろ受験シーズンですね。
来春にはこのまちで育った子どもたちが巣立っていくわけですが、
その子たちが将来、いろいろあって田舎に帰ってくることになった時にも
いつも通りシャッターを開けていたいですね。
まぁ、まずはしっかり受験頑張れ。
まちについて意識するようになったのは、
やはり直営店を構えるようになってからでしょうか。
2015年にはじめた「ひなのや壬生川駅前店」。
かつて存在した「東予市」という人口3万人くらいの町の
表玄関「JR壬生川駅」近くでテナントを借りて直営店をはじめました。
店を始めるときに、お金を借りた銀行の支店長に言われた言葉。
「壬生川駅前には、人がおらんよ。知っとるよね?」
言外に、「ちょっと融資を再考したいんやけども」みたいな
雰囲気を感じつつも、何とか開店にまでこぎつけ、今に至っております。
あの時、勇気をもって融資してくれた支店長には今もたいへん感謝しております。
さて、そもそも「なぜ直営店をまちに構えたのか?」
スタート時点での考えは、
まず第一に「お客様とのコミュニケーションを深めたい」ということ。
そして第二に「自分たちで売るチカラを獲得したい」と思ったことです。
だいたい、こんな動機だったかと思います。
「まち」についてどうこう思うよりは、自分たちがどうしたいか、どうありたいか、
つまり「自分(自社)」にその興味関心や動機が集約されていた状態だったと思います。
まぁ、そりゃそうですよね、借金して始める店ですから、
人より自分、まずは自分をなんとかせにゃいかんと思って当然。
そうじゃないと、支店長も浮かばれません。公共事業じゃないですからね、お商売は。
そんな「自分」に向けて全力疾走だったベクトルが、
なぜ「外(まち)」に向き始めたのか、決してよそ見をし始めたわけではない(!)
そんな視点の変化について、
これまたすいません、To be continueな感じで、また来週。
昨日から久しぶりによく雨が降ったなぁ。
もう2年くらい前の話ですが、
女子SPA!という週刊SPA!の姉妹Webマガジンで
ウチのポン菓子をご紹介いただいたことがありました。
https://joshi-spa.jp/826994
「女子SPA! パン豆」で検索しても出てきます。
個人的には、
日々、エンジン全開でポン菓子にまみれる日々を送っているわけですが、
世の中の大多数の人はそんなことはなくてですね、
そんな世の中の平熱のみなさまにポン菓子をお届けするためには、
個人的なエンジン全開を
いい具合に世間のテンションに落としこむ必要があるわけです。
つまり、
「世の中におけるポン菓子のベストポジションは?」
みたいなことを考えたりしているわけです。
時には、いろいろあって
「ポン菓子はどこまで世界に通用するのか?」とか、
「ポン菓子でミシュランの星はとれるものなのか?」
「ポン菓子つながりであこがれの某女優さん(京都在住)と知り合えたりしないのか?」
極めて個人的な、
有象無象の空想世界に耽ることもありますが。
そこで、冒頭の女子SPA!の記事ですが、
いままで読んだポン菓子に関する記事の中では
(そもそもポン菓子記事って少ないけども)、
いちばん「なるほどねぇ~、等身大のポン菓子ってそうよね~」
と納得したものです。
まぁね、エンジンさえかかってればね、
何とでもなるやろ。
ずいぶん前に読んだ本の内容なので細部が違っている可能性大ですが、
タリーズコーヒー創業者松田公太さんの「すべては一杯のコーヒーから」(新潮社)
松田さんは友人の結婚式で訪れたアメリカでスペシャルティコーヒーに出会い、
その美味さに感動し、この美味しさを日本でも紹介したいとの熱意から、
シアトルのタリーズ本社に掛け合い、銀座でタリーズ1号店を開業するわけですが、
開店してしばらくは朝から晩まで店に泊まり込み、
ご自身でお店のオペレーションをやってたそうです。
で、ここまではよくある話だと思うのですが、
いまだに印象的に頭に残っているくだりがですね、
一応アメリカ本社に準じたサービスや商品を提供しないといけないので
決められたオペレーションをやらんといかん、ということで、
そのアメリカ本社の人間がレクチャーにきたのが開店前日だったそうです。
(だったかな?まぁなんせ直前なわけですよ)
死ぬ気で覚えたそうです。
「その気になればなんでもできる」の証左と理解しています。
でも、今回のコラムの要点は
「一夜漬けでもなんとなかる」ということではなくて、
「事前の段取り」というのが、
その気になるのと同じくらい大切なんだよ、という事です。
若いころはどうしても「段取り」よりも「勢い」勝って
それで何とかなったりもするものですが(実際松田さんも創業時は29歳)、
さすがにいつまでも勢いそのままにとはいかなくなってきます。
幸い、齢40過ぎの僕も「事前の段取りの大切さ」を経験的に学んでいるので、
今回はしっかり準備をしていきたいと思っています。
そう、ひなのや松山店は、「ひなのやカフェ(仮)」として
カフェ業態にリニューアルいたします。
リニューアル予定は11月末。
もろもろ準備を進め、少しずつ内容をお伝えしていきたいと思っています。
準備、準備、準備。。。
そうそう思惑通りにいかないことも、経験的に知っています。
がんばれ、自分。
そんなこんなで先週の続きです。
「事故っても文句いいません書類」に署名して、
晴れて、ポン菓子機マスター(?)になり、
見よう見まねで毎日ポンポンやり始めたわけです。
と同時に、「味付け」もやらんといかんわけで、
ダイキで買ってきた片手鍋に砂糖やら水やら水あめやらを入れて煮詰めて、
「普通の砂糖味だけやったら売れんと思うよ」という妻の意見に押されて、
クックパッドで「キャラメルポップコーンの作り方」みたいなページを見て、
キャラメルソースのレシピを作り、ポン菓子にかけてみたり。
そんなノリで「ポン菓子のプロ」の日々が始まったわけです。
まぁ、個人的に思い描き期待していた「プロフェッショナル」像には程遠い状態ですよね。
なんというか、「プロフェッショナル」って普通ではない状態というか、
おいそれやすやすとは到達できないレベルにある人という偶像を思い描いていまして、
(それはそれで間違っていないとは、今でも思っていますが。)
10年たったいま、
自分がその境地に到達できているかと聞かれれば、
どうでしょう、
まぁ、確かに人よりはポン菓子機にも詳しいし、
それなりに味付けもできるようになり、
食品衛生の勉強もしてはおりますが、
そんな自分自身の期待値に十分応えているとも、
大きな声ではいいにくいかも。
ただ、自分たちにできることを、
間違いなく毎日キチンと繰り返し行ってきました。
そうやって10年という月日が流れたわけで、
その月日には何ら臆するところはありません。
思うんですが、
「プロであること」って、
もちろんそれなりのレベルのアウトプットができることは大前提ですが、
それ以上に、毎日毎日間違いなく確実にアウトプットし続けられる状態を
「プロ」っていうんじゃないのかな。
毎日まいにち、確実に自分の仕事を行うこと。
これがいまのところ、
10年たって実感として思う「プロ」の偶像です。
なんか、翌週までにひっぱったわりに、
どっかの社長(あ、オレか)の朝礼みたいなオチになっちゃって、
どうもすいません。
ポン菓子を、
作って売って、
それで生計を立てるようになって10年になります。
いわゆる、「ポン菓子のプロ」になって10年。
石の上にも三年という言葉がありますが、
それを三回繰り返してもまだ一年おつりがくる年月なので、
たぶんそれなりに誇ってもいい年月なんだと思います。
などと自画自賛する前に、
この10年間お付き合いくださり、支えてくださっている全国のお客様や
お取引先さまへの感謝の念を、冒頭語るが筋というもの。
初心が大事。まだまだ未熟。襟を質して、しっかりやらんとイカンです、ほんとに。
それにしても、
自分が「ポン菓子のプロ」になるなんて、夢にも思っていませんでした。
そもそも、ポン菓子のプロって何よ?という話で、
よくお客様から「何代目ですか?」とか、
「どこかのポン菓子屋さんで修業されてたんですか?」
みたいな質問をされます。
いえいえ、一応こうみえても創業者なので、
代を継いだりなんてしておりません。
人からポン菓子について教えてもらったのは、
はじめてポン菓子機を購入したときに、
業者のおじさんから30分くらいレクチャーを受けたことと、
その時にもらった「味付けのしかた」みたいなA43枚くらいをホッチキスで留めた
指南書くらいのものなのです。
(その時、「万一事故ってもメーカーに文句いいません」的な書面にサインさせられたことを鮮明に記憶しています。)
ちょっと、話が長くなりそうなので、
続きはまた次週。
ポン菓子屋に限らずですが、
モノを作る仕事に就いている人は、
基本的に、朝が早い。
僕はたいてい、10時には寝て、5時に目覚め、7時には丹原にある製造所にいます。
ポン菓子を製造している従業員さんは9時出勤なので、
それまでの約2時間の間で仕込み的な作業をこなし、
その後はそのまま製造現場で働く日もあれば、直営店の店番に就いたり、
ある日は外に出かけて商品企画の打ち合わせや、外部の方との折衝をしたりと様々です。
そして、6時には仕事を置いて、家路につく。
20代のころは、普通に会社員をしていました。
その頃は、8時起床9時出社、22時頃退社して、25~26時頃就寝。
こんな感じでしたかね。
ざっと3時間前倒しのワークライフになってます。
どんな時間割で仕事するかは人それぞれで、どれがいいとか悪いとかはないですが、
3時間前倒しになったことで、
毎日朝の光をしっかり浴びられることが、わりと気持ちいいです。
朝日って大事。
無論、晴れの日ばかりじゃないですが。まぁそれはそれで。
みなさま、はじめまして。
ひなのやの店主、玉井大蔵と申します。
この度、ホームページリニューアルに伴い、誰に頼まれたわけでもないのですが、
この「小咄(こばなし)」のコーナーを設けることにいたしました。
ここではおそらく、
実際にお客様の役に立ったり、何かしら人生のためになったり、なんか得をしたり、
というような情報は得られません。
ここでは、何の因果か、ポン菓子屋を創業してしまった社会的にマイノリティな男の、
どうでもいいようなつぶやきを書き連ねていこうと思っています。
そんなものを書き連ねていったその先で、
もしも何らかの意味合いを見いだせたならば、
それはお互いに幸せなことだと思います。
その時に、あなたのそばにひなのやのポン菓子があったなら。
そんな奇跡を期待しつつ、小咄コーナーはじまります。